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日々の思うこと

道ならぬ恋について

ロダンと愛人関係にあったカミーユ・クローデルは、15年もの長きにわたりロダンと関係していたものの、中絶の末ロダンに捨てられ、精神を蝕まれ家族に看取られないままこの世を去った。
類まれな美貌と才覚を兼ね備えていても、彼女は最終的に手放される運命にある2番目の存在であったのだ。
出会った順番もあったのかもしれないが、道ならぬ恋とは成就しないものなのかしら、とわたしは思っている。
そもそも、彼女は"2番目"として選ばれた存在だったのかもしれない。
その人が愛する誰かに足りないものを補うための存在。
そのバランスが崩れたとき、関係性は破綻するのであろう。
そうした"2番目"の存在になってしまったら、1番に繰り上がることなどほぼないといっても過言ではないはずだ。
たとえば、普段暮らす住宅と別荘に求める条件が違うように、人間においても相手に求めるところが違えば相手の立場も変わってくると思うし、胸の高鳴りを得られる相手と、共にいて心地よい相手というのも違っているような気がする。
道ならぬ恋の相手ではなく、だれかの1番になれるひとというのは、情熱的な色恋ができた相手ではなくて、きっと相手に肉親のような居心地の良い関係性を提供できるひとなのだろう。
冒頭でカミーユ・クローデルの話を出したが、わたし自身もおそらくだれかの1番になりづらいタイプであろうと感じる。
燃え上がるような恋の方が好きで、なにかあったら相手と心中したってかまわないといった類の愛し方は一般的ではないのであろうし、そもそも末長く共にあろうという感情とは違うのかもしれない。
無責任に愛されて無責任に愛したいのが成立する関係が道ならぬ恋でなかろうか。
そう思えば自分の色恋の傾向というものはやはり道ならぬ恋寄りである。
自分はきっとその人にとっての2番目になるだろうというのは卑屈な考え方かもしれないが。
また、道ならぬ恋をするひとのなかでは、わたしのような破滅的な恋愛をしたいタイプとは違って、それこそロダンのように1人を選べずに同時に複数の人を愛していたいよくばりさんもいるだろう。
こういうタイプが出会ってしまったらいちばん厄介だよななんて思いながら、夜ふかしなわたしはようやく微睡んだ。